炭治郎の使用した技のひとつ、伍ノ型・干天の慈雨(ごのかた・かんてんのじう)。
今回はこの技についてバトワンなりに考察し、理解を深めていきたい!
苦痛を与えぬ慈悲の斬撃の正体に、出来る限り迫っていければ!
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伍ノ型・干天の慈雨(ごのかた・かんてんのじう)の強さ考察、苦痛を与えぬ慈悲の斬撃!
伍ノ型・干天の慈雨(ごのかた・かんてんのじう)を使用しているシーンは以下。
鬼が自分から望んできた時のみに用いられるのが、この斬撃の特性なのだという!
バトル漫画だと“技の強さ”に注目が集まりやすいものだけど、これはひとつの新たな「魅せ方」だよねきっと!
鬼滅の刃4巻より引用 使用された伍ノ型・干天の慈雨(ごのかた・かんてんのじう)!
作中においての説明は“この型で斬られた者には殆ど苦痛が無い”のだという。
いかに相手が鬼とはいえ、作中の表現を確認する限り鬼は鬼である種の葛藤のようなものを抱えているケースが多い感じ。
鬼も決して「鬼になりたくて鬼になったわけじゃない」みたいなタイプも多そうな印象だし、相手の中に“人間的側面”を重視するなら、こういう斬撃は“救い”になるのかもしれない!
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鬼人しての側面、人としての側面!
鬼滅の刃を読んでいると、表面的には“救いがないこと”がひとつのテーマとなっているような気もする。
しかしながら、もう一段階深く降りてみると、見えてくるものがちょっとだけ変わってくるような気がしないでもない!
特にバトワンが注目しているのは「鬼とはそもそも何か?」といった部分だったりする!
鬼を仇敵とし、戦っていくのがシナリオの鬼滅ワールドの醍醐味であり骨子。
しかし、この“鬼”という存在に“人間の側面”が与えられているから深みがあって面白いんじゃないかな?なんて思ってたりする!
人それぞれ色々な思いを抱いて鬼になっていったことだろう。
中には望んで鬼になった者だっているかもしれない。
そのプロセスの中で、人として忘れたくなったものや、大切にしたかったものを失った人もいるだろう!
そういった“人間の面影”を微妙に残している存在が鬼だとするならば、鬼殺隊のような立場の人間が彼らを斬ることは、ある意味かれらを「人として見なし、救うこと」にも繋がってくるような気がするよね!
さらに、鬼サイドの立場に立ってみれば「救ってほしい・ほしくない」の二択だって重要になってくる部分なはずだ!
そうやって見てゆくと、鬼を斬り続けることが正しいことなのかどうか…みたいな部分もまた、今後のテーマになってくるような気がするかもしれない!
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バトワン世界の歩き方を追記!
バトル考察で盛り上がろう!