「ざまぁ見やがれw」
人の不幸は蜜の味というけれど、この感覚はバトワンにとって最も忌み嫌うもののひとつだったりする。
しかし今回の童磨の死にはそういう感覚を確かに覚えたし、それを正直に告白しておきたい!
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童磨の死に感じたシャーデンフロイデについて!
人の不幸を笑うのは良くないことだ。
口に出す・出さないに関わらず、そう“思う”こと自体が善いことじゃないと思うし、バトワンはそれなりにその感覚をずっとずっと磨き抜いてきたつもりだった。
しかし今回の童磨の様子を見ると、さすがに「ざまぁみやがれ!」って感覚に近い思いを抱いてしまったんだよね。
ここに懺悔に近い感じで、それを正直に残しておきたいと思う!
鬼滅の刃163話より引用 反省の色のない童磨の様子!
死してなお反省の色のない童磨の様子。
これまで見てきた鬼と比較してみると、悪質さでいけば“玉壺”あたりのほうが上だったように思う。
童磨は感情の起伏が生まれつきほぼ皆無だったわけだし、それはある意味では“障害”のようなものだと思うんだ。
もちろん彼のしてきたことは非常に残忍で許されることではないんだけれども、彼は「自分が悪いという自覚を感じられない病」に侵されていた…と見ることも出来ると思うんだよね。
しかしそれでもやはり、彼の最後にはシャーデンフロイデを感じざるを得なかった。
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鬼滅の刃という作品の恐ろしさ!
悪い敵をぶっとばしてスカっとする…というのはマンガ・アニメの王道表現。
しかし今回の童磨との戦いにおいては、これまで見てきた「スカっと表現」とはまた違った爽快さがあったと思う。
それがまさに以下のカット。
最後の最後に胡蝶さんに恋の感情を抱き、一瞬でフラれてしまった場面だろう!
鬼滅の刃163話より引用 このシーンはかなりスカっとした!
「ざまぁ見やがれ!」という感覚を最も強く感じたのはこのシーン。
分析してみると、おそらくバトワンは“童磨の敗北・死”についてそう感じたのではなく、どっちかというと“胡蝶さんにフラれたこと”についてそう感じた。
さんざん悪いことをしてきた童磨に対し、フラれるという行為は罰としては(本来ならば)軽すぎる。
しかしそれが軽すぎるがゆえに「これくらいならザマァって思って良いよね?」って感覚を掻き立てられてしまったんじゃないかな、と、今では感じるかな・
しかしともあれ、この感情の動きを理解して物語を描いていたとしたら、吾峠先生は相当に恐ろしい人。
人間の心理に相当に熟達していないとこんな表現はできないと思うから、本当に凄いシナリオ運びだったように思う!
そういった意味では今回の163話は、鬼滅の刃の神回のひとつにカウント出来るような気がするかな!
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バトワン世界の歩き方を追記!
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